30歳で逝った親友に捧げる

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その友とは15歳で出会い30歳で永遠に別れた

高校生の多感な時期にいつも一緒にいた親友がいました。

部活に入ることもなく、いつも授業が終わるとすぐに帰宅するのが常でした。

そんなある日の放課後に、声をかけてきたのが同級生のSでした。

少林寺拳法っていう護身術をやってるサークルがあるんだけど、見に来ないか?

唐突でしたが、その日は特に用事があるわけでもなく、ついていきました。

その日、人生が変わった

彼以外にあと二人いて、どうも先輩の命令で勧誘に来たということなのでしょう。

武道に興味はあったので、見学してみて面白いなと思いました。

その日のうちに入会を決めて、翌日から練習に参加しました。

何かやりたいとは思っていて、でも部活というのは負担が大きいし、先輩後輩の上下関係がなじめなくて躊躇していました。

愛好会という気楽さもあり、担任が顧問を務めていたので、その先生のススメもありました。

僕を誘ってくれたSは、外見的にはイケメンで背も高く、女生徒にもモテる奴でした。

しかも成績は常にトップクラスの秀才と来ていました。

普通にむかつく奴と思われがちですが、僕は彼の人柄が好きでした。

容姿や成績を鼻にかけることもなく、明るくて人を笑わせるのが得意で、なんとも面白い男でした。

空手を習っていて、この学校には空手部がなかったので、少林寺に入ったのだそうで。

この三人とは毎日、放課後に校舎の裏の剣道場の隅っこを借りて錬習していました。

高校生活の大半を一緒に過ごした友人たちでした。

僕は、顧問に勧められて自宅近くの少林寺拳法の道場に入門し、高校卒業前に黒帯を取得しました。

大学進学後も続け、その後50年間を少林寺拳法と共に生きてきました。

現在では自分の道場を持ち、教えた門下生は100人を越えます。

人生とは一人の人間との出会いにより大きく展開が変わるもの

Sは僕に計り知れない大きな影響を与えてくれました。

成績がクラスの真ん中より少し下という位置にいた僕でしたが、Sの影響で前向きに勉強に取り組むようになったのです。

卒業が近くなるころには、僕は学年で上位に入る成績を出せるようになり、大学進学も果たしました。

Sは家業の酪農を継ぐため、獣医師の資格を取るべく専門大学に進学しました。

もちろん成績はトップクラスでした。

高校卒業後、大学生の頃に数回会っただけで、社会人になってからはほとんど音信不通でした。

それが、僕たちが28歳になった頃、ある日電車の中で再会を果たします。

吊革につかまって窓の外を眺めていた僕の隣にちょっと不自然な長髪とサングラスをかけた男が乗り込んできました。

僕にはそれがSだとすぐにわかりました。

「Sだろ?」と声をかけると、「おお、久しぶり」と返してきました。

そこから30分ほどの車内の会話を今も覚えています。

大学を卒業後数年して、Sは大病を患いました。

悪性リンパ腫というのがその病名だった

その時は、放射線と薬物治療で完治したと診断されていました。

でも、僕と再会した当時、医師から再発を告げられていたのです。

今は定期的に通院しているんだと言っていました。

薬物治療の影響で頭髪が抜けてしまったのが、あのカツラとサングラスの理由だったのです。

久しぶりに飲みにでも行かないかと僕から誘い、連絡先を交換してその日は別れました。

数日後、一緒に練習していた友人のTも呼んで、居酒屋で乾杯しました。

僕はその頃、仕事で青森県に住んでいたのですが、Sはねぶた祭りと十和田湖が見たいと言って、旧友二人と遊びに来てくれたのです。

楽しい思い出です。

そして彼らが帰ってしばらくした頃、Tから電話が入ったのです。

「どうした?」と聞く僕に、Tは投げ捨てるように言いました。

「どうしたじゃない!最悪なことになった」

その言葉に僕は全てを理解しました。

享年30歳

早すぎる別れでした。

それからもう35年が過ぎようとしている

僕は今もSがそばにいて、Tと三人で飲んでいる夢を見たります。

65歳になって、Sがくれた思い出と、僕の人生に与えた影響を思う時、Sの人生の分も精一杯生きて幸せにならなきゃいかんと思うのです。

今は停年を迎え、残りの人生を寂しく送るばかりの毎日ですが、まだ人生はしばらく終わりそうにありません。

やりきったぞと思えるように

Sとあの世で会えたら、お前の分も楽しんだぞって報告できるように。

 

 

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