できない事だらけだった高校時代
中学までろくな勉強などして来なかった結果
高校はまともな普通高校には入れなかったんです。
家が農家だとか、そういう訳ではなく、僕が選んだのが農業高校でした。
なんで?
子供ながらの戦略っていうか、まともに戦っても無理だって思ってました。
この頃から僕は、なんか変則的に物事を見る癖がありまして。
ヒントがあったんです。
それは僕の母親の口癖でして、小さなころからよく聞かされていた話です。
母は9人姉弟の長女でした
昭和5年生まれで、戦争体験者でもあります。
実家は農家で、その頃はどこの農家もそうだったらしいんですが、親が畑仕事してる間に学校行って、帰ってくると、下の妹と弟の面倒を見ながら、夕ご飯の支度、お風呂を沸かすのが日課だったそうです。
家族はお爺ちゃんとお婆ちゃんと両親と、子供達9人、総勢13人です。
ニワトリと豚と牛も飼っていたので、餌やりも子供の仕事だったそうです。
そんな家族なんて、現代ではあまりないでしょうが、貧しいながらも豊かな生活だったろうと思われます。
その頃の事を、僕は毎夜、寝枕に母から聞かされて育ちました。
母から数えて6人まで、女の子しか生まれなかったんです。
母のお父さん(僕のお爺ちゃん)は、跡取りがもう生まれないんじゃないかと思っていたようで。
「お前が婿養子取って、家を継ぐんだ」と言っていました。
でも、7人目にして長男誕生!
その後次男、三男と男の子に恵まれて、お婆ちゃんはさぞかし大変だったと思います。
その長男というのが、どう間違ったのか、結構な秀才だったのです。
僕の叔父さんに当たる人です。
お爺さんは、農家の長男だからということで、農業高校に進学させます。
本人から聞いた事はないのですが、彼の中には田舎の農家を継ぐ未来と、自分の可能性を見つけたいという思いがあったのではないかと思います。
どのくらい秀才だったかというと、学年で常にトップというだけではなく、県内でも全国でも常に上位に昇るほどの学力だったんだとか。
それで、この子は絶対に大学に進学させた方がいいと、学校の先生がお爺ちゃんを説得しに来たそうです。
お爺ちゃんは、農家の長男は家を継げばいいといって、聞かなかったとか。
でも、あまりにも熱心な学校のススメで、大学受験を認めたそうです。
結果、叔父は東京農工大学に合格します。
それだけでも凄いと思うんですが、卒業後の進路は、農林省です。
国家公務員の研究者として、農作物の品種改良に貢献することになったのです。
日本国内の研究施設を渡り歩き、後年にはタイに赴任し果樹の品種改良に従事しました。
研究者としてどれほどの功績を残したかは僕自身よく知りませんけど。
そこまでの功績を知る限りでも、親族ではあるものの、凄い人だと思っています。
母から聞かされ続けた叔父のエピソードが、僕の方向を決めた
少しでも、ほんの少しでも、そんな素質や才能が自分にも流れているとしたら。
だから、頑張ったら何とかなるんじゃないかって、15歳の中学生なりに考えたんです。
そして決めたのが、叔父と同じ農業高校への進学でした、
そして、その高校で、僕は人生を変える出会いを体験します。
何も目標がなかった高校生活に起きた変化
入学当初、バレーボール部に入部しました。
身体を鍛えたいという気持ちがあり、クラスの友人からの誘いもあり。
でも、半年ほどで向いていないと思い、やめてしまいます。
やっていてあまり楽しさを感じなかったので。
しばらく部活動はせず、授業が終われば帰宅するだけの日々が続きました。
ある日、帰ろうとしていると、普段はあまり口もきいたことが無いクラスメイトから声をかけられました。
彼らは同じ中学の出身で仲の良い3人でした。
「少林寺拳法って興味ない?」
「え?」
「放課後に愛好会で活動してるんで、見に来ないか?」
彼らに違和感を感じることはなく、武道ってなんか面白そう・・・
見学だけのつもりで、ついていきました。
1時間ほどの見学と、簡単な体験もさせてもらい、面白そうだなと感じたのです。
翌日、入会する意思を3人のうちのリーダー格の同級生に伝えたのです。
その男とは、後に生涯の親友になります。
生涯の親友との出会い
彼は元々、空手をやっていて、空手部が学校にないので、少林寺拳法に入ったそうです。
そして、その愛好会の顧問が、担任の先生でした。
まんまとはめられたという気もしないではありませんが。
少人数で楽しく出来たことと、部活動ではないので、理不尽なキツさとかは無かったのです。
拳法だけでなく、空手の手ほどきも受けました。
小柄で非力な自分が強くなれるという実感を得ることができました。
結果として、その後48年間、僕は少林寺拳法を続けることになります。
高校生活の大半を少林寺拳法の仲間と過ごしました。
そして、2年生の終わり頃、愛好会の会員を10人集め、正式に生徒会の部活動に昇格することとなりました。
既に地元の道場にも入っていて、初段を取っていた僕が、初代の部長になったのです。
空手をやっている彼は、むしろ空手のトレーニングの延長として練習に参加していたこともあり、部長にはお前がなれよと勧めてくれたのです。
高校3年、進路が決まる頃
進学か、就職か・・・
そろそろ、進路を決めないといけない時期でした。
僕は大学に行きたいと考え始めていました。
同じ高校の先輩でもある、母の弟の影が、大きく影響していたと思います。
それにしても、クラスでも中間くらいの成績だった僕がはたして大学進学できるのか?
正直、あまり自信はなかったのです。
でも、またしてもそれを救ってくれたのが、他でもない、空手の友人Sでした。
実はスポーツ万能であると同時に、彼は勉強においても優秀で、実家が酪農家でもあったことから、獣医になることを目指している秀才でした。
彼はその目標も、後に立派に果たしています。
Sは、勉強をする理由や、どうやっているかを僕に教えてくれました。
彼の周囲には、やはりクラスでも優秀な連中が集まるのです。
部活とは無関係なのですが、Sと付き合ううちに、そういう友人も自然に増えていきました。
環境とは恐ろしいもので、そんな友人が増えることで、競争心が芽生え、必死に勉強に打ち込む自分がいることに、その時気づきます。
結果として僕は、担任も絶対無理と言っていた、東京農業大学に進学を果たすのです。
誰と出会うかで人生は決まる
Sとの出会いが、大きく僕の人生を変えました。
というか、自分だってやればできるという、きっかけを作ってくれたのです。
最初は、小さな成功ですが、うまくいくと次もまた頑張る。
その繰り返しが、気が付けば大きな成功に結び付くのでしょう。
やっているのは他ならない自分自身ですが、何かに引っ張られるように物事がいい方向に進んでいくのです。
60歳を過ぎても、小さな成功体験を重ねる事が大切なのです
何もしなくても、時間は過ぎていく。
ならば、その時間を無為に過ぎすのではなく、新しい事にチャレンジする。
それがうまくいけば、励みになり、また次につながる。
そうなると、毎日が充実し楽しく生きられるようになります。
楽しい人生に気づくと、その楽しみを継続させるために、健康でいようと努力します。
楽しみのために、節制し、健康維持もするようになります。
それ自体、また新しい楽しみになっていく。
死ぬまで、この繰り返しでいきましょう。
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